B

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です


※メイン州 State of Maineのバス Bathにて、1833年にバス鉄工所 Bath Iron Works(BIW)が設立。1884年には施設の拡張が行われ、イースト・ブランズウィック East Brunswickとポートランド Portlandに乾ドックや加工場をはじめ建造や修理の施設が設けられた。そののちバス・インダストリーズ社 Bath Industries, Inc. の子会社になる。1986年、プラデンシャル証券 Prudential Securitiesが買収。1995年9月にBIWをジェネラル・ダイナミックス社 General Dynamics(GD)が再買収
※バス鉄工所が、第二次大戦後初めて建造したのは駆逐艦ミッチャー級のうち2隻。1953年~1957年にかけて、駆逐艦フォレスト・シャーマン級が18隻起工され、同社も9隻を建造した。1952年10月~1967年10月にかけて、駆逐艦チャールズ F. アダムス級(23隻中4隻)、護衛艦ディーリー級(13隻中3隻)、護衛艦ガーシア級(17隻中4隻)と次々に建造。1957年8月~1967年1月にかけてはミサイル・フリゲイト・ファラガット/クーンツ級(10隻中2隻)、ミサイル・フリゲイト・レイヒ級(9隻中3隻)、ミサイル・フリゲイト・ベルナップ級(9隻中5隻)を建造した。ミサイル・フリゲイト・オリヴァー・ハザード・ペリー級51隻中25隻を、1975年12月~1987年2月にかけて建造している。ミサイル巡洋艦タイコンデロガ級も27隻中8隻建造し、現在はミサイル駆逐艦アーレイ・バーク級を建造
※4つの建造ドックを備え、商船、艦艇合わせて年間50,000tの鋼材加工能力があり、駆逐艦クラスを建造対象にする中堅造船所である。バス工場は敷地こそ0.22平方kmと狭いが、材料置き場から始まって外板などの曲げ加工場、内業加工場、組み立て場、パイプ工場、機械工場、建造ドック、艤装岸壁、クレーンなど造船所の設備を一通り備えている。この中で、クレーンは能力330tと220tのものが各1基ある。乾ドックの能力はポートランドの分工場のものが81,000t、バス工場のものは9,000t。イージス関連の試験所や事務所が設けられている
※2025年5月16日に造船所のインフラ改善工事について、修正契約を受注。2031年1月まで
↑PCU Momsen (DDG-92, in the water), PCU Bainbridge (DDG-96, closest to Momsen) and PCU Nitze (DDG-94, on the right) at Bath Iron Works. Image courtesy of NavSource.

↑USS Frank Knox (DD-742). On the building ways at the Bath Iron Works shipyard, Bath, Maine. Probably taken while she was being painted in preparation for launching, which took place on 17 September 1944. Courtesy of the Naval Historical Foundation, Washington, D.C. Collection of Fleet Admiral Ernest J. King, USN. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center. Image courtesy of HyperWar.

1918年1月にバス鉄工所が提案した嚮導駆逐艦案(Preliminary Design No. 192)

↑Image courtesy of Shipbucket.


※ニュー・ジャージー州 State of New Jerseyのエリザベスにあるベスレヘム・スチールの造船所は、サミュエル L. ムーア&サンズ社 Samuel L. Moore & Sons, Inc. が所有するクレセント鉄工所 Crescent Iron Worksの子会社、クレセント造船所 Crescent Shipyardとしてスタートした。1894年にルイス・ニクソン Lewis Nixonにリースされ、1904年にベスレヘム・スチール社に買収され、ジョン W. サリヴァン John W. Sullivanに一部を、ニュー・ジャージー乾ドック&トランスポーテーション社 New Jersey Dry Dock & Transportation Companyに一部をリースしたが、1916年まで完全な支配下に置かれ、第一次大戦中の緊急造船のために使用された。ベスレヘム・スチールの船体番号はニュー・ジャージー乾ドック&トランスポーテーション社の船体番号と続いており、サリヴァン造船所はメイン・ヤードとは別であったことを示唆している。造船所は第一次大戦後閉鎖された。マーシャル・ストリート Marshall Streetの麓、フロント・ストリート Front Streetにあった。現在、そこにはウォーターフロント・パーク waterfront parkがある。Googleで上空から見た現地の様子はこちら


※クインシー造船所 Quincy shipyardはアリグザンダー・グラハム・ベル Alexander Graham Bellの有名なアシスタントであるトーマス A. ワトソン Thomas A. Watsonによって1886年にフォア・リヴァー・エンジン社 Fore River Engine Companyとしてスタート。元々はマサチューセッツ州 Commonwealth of Massachusettsのイースト・ブレインツリー East Braintreeにあったが、すぐにマサチューセッツ州のクインシー Quincyに移り、フォア・リヴァー・シップ&エンジン社 Fore River Ship & Engine Companyになった。同社は1913年にベスレヘム・スチール社 Bethlehem Steelに売却され、第一次大戦では駆逐艦を建設するためにスカンタム・ポイント Squantum Pointに緊急施設を運営。一握りの大きな造船所と並んで、戦時中は完全な運営を続けた。その能力は、第二次大戦の開始時に、海軍から$21,000,000の投資で拡大。第二次大戦では緊急施設をも。1つはマサチューセッツ州ヒンガム Hinghamで揚陸艇、護衛駆逐艦(DE)戦車揚陸艦(LST)を建造。ピーク時には、造船所は32,000名を雇った。戦後、大規模なギリシャの船主のためにタンカーを建造するなど、商船と海軍艦艇の建造の両方を継続するも1963年にベスレヘム・スチール社はジェネラル・ダイナミックス General Dynamicsに売却。GDは莫大な投資をして海軍造船に集中したが1986年に造船所をマサチューセッツ州に売却。1995年、Sotirious Emmanouilは旧造船所を購入、マサチューセッツ重工 Massachusetts Heavy Industriesを通じて造船所の復活を約束。同社は敷地の多くを整備し、$55,000,000(現在の価値では$86,400,000に相当)のローンを確保したのち、いくつかの建物を建設するも契約を結ぶことができなくなった。同社は最終的には貸出残高が不履行となり、資産は2000年に海事局 United States Maritime Administrationに押収され、資産は数年後にオークションにかけられた。地元の自動車ディーラーであるダニエル J. カーク Daniel J Quirkは2004年、自動車の保管と流通の施設としてここを購入($1,000,000)。大不況の前に、彼はマンションや生活史展示場に再開発する計画を公表。2006年、ゴライアス・クレーン Goliath craneが構造の劣化が進行して危険になったため、計画が中止。旧造船所はマサチューセッツ湾輸送機関(MBTA: Massachusetts Bay Transportation Authority)のハーバー・エクスプレスが運航するボストンへの通勤ボートの港として機能していた。このサーヴィスは、クインシーのドックが深刻な損傷を受けた2013年に廃止。造船所はJay Cashman, Inc. による重工業および海上機器サーヴィス、マサチューセッツ州水資源局(Massachusetts Water Resources Authority)による下水汚泥加熱乾燥およびペレット化施設、及びフォア・リヴァー・トランスポーテーション社(Fore River Transportation Corporation)による短距離貨物鉄道サーヴィスCSXTなどが使用している。造船所はまた、プロパティに隣接している新しいフォア・リヴァー・ブリッジの主要建設区域としても使用されている。造船業は1986年に中止されたが、造船所の名前は引き続き使用され、その場所は依然としてフォア・リヴァー造船所と呼ばれている
フォア・リヴァー造船所は、閉鎖されて以来複数の映画にも出演。2005年の映画「The Departed」の最終シーンは、造船所にて撮影。2009年、映画「The Company Men」は元造船所の場所で撮影された。2015年の映画「The Finest Hours」では、巨大水槽とともに造船所内にセットが建設されている。この映画ではこの造船所で建造された記念艦セイラム Salem(CA-139)も撮影に使用


※1849年に“鉄の男”ドナヒュー3兄弟の1人、ピーター・ドナヒュー Peter Donahueによって、ユニオン・ブラス&鉄工所 Union Brass & Iron Worksがカリフォルニア州 State of Californiaのサン・フランシスコ San Franciscoに設立。1906年にベスレヘム・スチール社 Bethlehem Steel Companyに売却。しかしベスレヘム・スチール社は、1917年までユニオン鉄工所 Union Iron Worksの名前を使用し続けた。のちにベスレヘム・スチール社はマサチューセッツ州クインシー、メリーランド州 State of Marylandのスパローズ・ポイント Sparrows Pointと幾つか小さい造船所を取得し、造船所の名前と船体番号付けシステムを標準化した。1911年にサン・フランシスコ造船所は、機関車を造っていた隣接のリズドン鉄工所 Risdon Iron Worksの買収により拡大する。この施設は、第一次大戦に駆逐艦の建造をする。造船所は、両大戦間を通じて稼働し続け、第二次大戦以前は西海岸で唯一の主要造船所だった。1982年に市に造船所を$1で売却。サウスウェスト・マリーン社 Southwest Marine, Inc. にサン・フランシスコ乾ドック San Francisco Drydockの名でリースする。2002年にBAEシステムズ BAE Systemsの一部門となる。2017年初めにPuglia Engineeringに売却されたが、この取り引きは直ちに破談し一度造船所が閉鎖された
※第一次大戦中の1916年に合衆国船舶院の標準貨物船を建造するために、アラメダ造船所 Alameda shipyard(旧ユナイテッド・エンジニアリング・ワークス United Engineering Works)が加わった。第一次大戦後、造船所はユナイテッド・エンジニアリング・カンパニー United Engineering Companyとなる、第二次大戦では10隻の兵員輸送艦(AP)、21隻の艦隊航洋曳船(ATF)と10隻の無蓋運貨船(非自走)(YC)を建造したが、船の修理や改装も行った。1956年に閉鎖。ウェブスター・ストリート Webster Streetの麓に位置し、今残っているのはパワー・ハウス power house、オフィス・ビルだけである


※ボストン海軍造船所 Boston Naval Shipyardは1800年にチャールズタウン海軍工廠 Charlestown Navy Yardとして設立、1945年にボストン海軍工廠 Boston Navy Yardに変更され、1967年以降はボストン海軍造船所と呼ばれる(ほかの資料では、“歴史の中でチャールズタウン海軍工廠は、異なる名前で呼ばれてもいた。普通、海軍での伝統は海岸の施設や造船所は地理的エリアで呼ばれる、ここでは合衆国海軍工廠ボストン U.S. Navy Yard, Boston。しかし、ほとんどの造船所は通常、造船所が配置された実際の場所の名前であり、チャールズタウンのような複数の名前、代替で知られていた。19世紀を通じて、ボストン海軍工廠とチャールズタウン海軍工廠は頻繁にしばしば互換的に対応し、議会の立法の両方で登場。それは、今までそれがボストン海軍造船所となった海軍の海岸施設の1945年11月の再編成まで、施設の命名正式発注があったことは表示されていない”と記されている)。1974年7月1日に閉鎖。現在は、国立公園庁 National Park Serviceが運営しているボストン国立歴史公園 Boston National Historic Parkの一部。サウス・ボストン海軍付属施設 South Boston Naval Annexの大きい乾ドックは商業用の使用で利用可能であるが、多く使われるわけではない
Dry Dock 1, Charlestown Navy Yard, Boston National Historical Park. USS Constitution Museum.

↑BOSTON (Sept. 21, 2022) - U.S. Navy petty officers first class, selected for promotion to chief petty officer, participate in cleaning the Charlestown Navy Yard during Chief Petty Officer Heritage Weeks. During the week, Constitution Sailors teach the selectees a variety of time-honored maritime evolutions while living and working aboard the ship. USS Constitution, is the world's oldest commissioned warship afloat, and played a crucial role in the Barbary Wars and the War of 1812, actively defending sea lanes from 1797 to 1855. During normal operations, the active-duty Sailors stationed aboard USS Constitution provide free tours and offer public visitation to more than 600,000 people a year as they support the ship's mission of promoting the Navy's history and maritime heritage and raising awareness of the importance of a sustained naval presence. USS Constitution was undefeated in battle and destroyed or captured 33 opponents. The ship earned the nickname of Old Ironsides during the war of 1812 when British cannonballs were seen bouncing off the ship's wooden hull. (U.S. Navy Photo by Airman Austin Jean)

↑BOSTON (Nov. 7, 2018) - USS Constitution is moored at Boston Naval Shipyard, Nov. 7, 2018. Constitution, America's Ship of State, is the oldest commissioned warship afloat in the world. U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Joshua Hammond. (Released)
↑CHARLESTOWN, Mass. (Sept. 25, 2013) - An aerial photo of USS Constitution and the Charlestown Navy Yard. Constitution and the yard are closed to the public as a result of the government shutdown that took effect Oct. 1. U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 3rd Class John P. Benson. (Released)


※デイヴィッド・ブラウン David Brownとジェイコブ・ベル Jacob Bellは、ヒューストン・ストリート Houston Streetのふもと、イースト・リヴァー East Riverでアダム Adamとノア Noahのブラウン Brown夫妻が経営していた造船所で見習いとしてこの業界に入った。1812年の戦争終結後、彼らはモービル Mobileの北、アラバマ準州 the capital of the Alabamaの州都セント・スティーヴンス St. Stephensにあるトゥンビグビー川 Tombigbee Riverで自分たちの造船所を始めた。しかし、その場所は物理的に制約があったため、モービルの北東、テンソー川 Tensaw River沿いのブレイクリー Blakelyに移転した。そして1821年、アダム&ノア・ブラウン造船所 Adam & Noah Brown yardを引き継ぐためにニュー・ヨークに戻った。デイヴィッド・ブラウンは1848年に死去し、会社はジェイコブ・ベルとして存続した。ベルは1852年に亡くなり、彼の息子が数年間引き継いだが、1855年に造船所は閉鎖された。なお、このの最後の欄にある“Abandoned”には、廃船や解体も含まれている
※同社は、1846年にペルーからの依頼で、以下の艦も建造した

↑Image courtesy of Shipbucket.


※ブラウン・シップビルディング Brown Shipbuildingは1941年、ジョージとハーマンのブラウン夫妻 George and Herman Brownが海軍から$9,000,000を得て、グリーンズバイユー Green's Bayouとヒューストン船舶航路 Houston Ship Channelの分岐点に建設した。彼らは12隻の駆潜艇(鋼製船体)(PC)、32隻の歩兵揚陸艇(大型) LCI(L)、61隻の護衛駆逐艦(DE)、254隻の中型揚陸艦(LSM)を建造した。1949年、この造船所は、戦時中にヒューストンにあったトッド・ヒューストン造船所 Todd Shipyards Corporationを政府に明け渡さなければならなかったトッド造船所 Todd Houston Shipbuildingに貸し出された。トッド造船所は、1984年にブラウン造船所 Brown yard(当時はブラウン&ルート造船所 Brown & Root)に返還されるまで、ブラウン造船所をヒューストン事業部 Houston Divisionとして運営し、オフショア造船所となった。 2004年に複数の買い手に分割売却され、現在はブラウン造船工業団地 Brown Shipbuilding Industrial Parkとなっている。Googleで上空から現地を見る
※1940年代初頭、テキサス州ヒューストン Houstonのブラウン造船所は、米海軍の護衛駆逐艦、駆潜艇、揚陸艇の建造を政府から受注した。この造船所は、造船経験のないところから始まった海軍艦艇の建造、狭い水路の遠隔地からの操業、ほとんど未熟練労働者の採用と訓練など、多くの障害に直面した。女性やマイノリティの労働者の待遇が批判され、欠勤、離職、労働ストライキなどの労働問題にも直面した。このような困難にもかかわらず、ブラウン造船は熟練した造船労働者を育成し、結果的にヒューストンの戦後の産業経済を後押しすることになった。ブラウン造船は、ブラウン・アンド・ルート建設会社 Brown and Root construction companyのジョージ・ブラウンとハーマン・ブラウンによって1941年に設立された。第二次大戦中、ヒューストン地域で2番目に大きな雇用主であった(EC2-S-C1型貨物船“リバティ・シップ”を建造したヒューストン造船公社 Houston Shipbuilding Corporationが最大であった)。テキサス州選出の下院議員アルバート・トーマス Albert Thomasとリンドン・ジョンソン Lyndon Johnsonは、ブラウン&ルート社が海軍の契約を獲得する上で大きな影響力を持っていた。ブラウン兄弟はフランクリン・ルーズヴェルト大統領 President Franklin Rooseveltの再選キャンペーンに多額の資金を投じていた。実際、作家のダン・ブライオディ Dan Briodyは、ブラウン兄弟が造船業に参入できたのは“ハーマン・ブラウンの資金によって、民主党全国委員会よりも多くの政治家がテキサス州で公職に就いたから”だと主張している。海軍はブラウン&ルート社に駆潜艇の建造を持ちかけたが、当時同社には船舶建造の経験が全くなかった。ブラウン兄弟は、特定の分野における経験不足を障害とは考えず、“適切な人材がいれば、請負業者は船舶、ダム、道路、その他何でも建造できる”と述べた。ブラウン&ルート社は、テキサス州中部で1937年に完成した$25,000,000のマーシャル・フォード・ダム Marshall Ford dam(現在はマンスフィールド・ダム Mansfield damとして知られる)の建設で高い評価を得ていた。ジョージ・ブラウンは、小さな造船所が経営難に陥ったのち、プラッツァー造船公社 Platzer Shipbuilding Corporationの主要投資家となり、海軍はブラウン&ルートのやり遂げる能力を評価して、プラッツァーに$2,200,000で、4隻の駆潜艇を建造する契約を発注した。海軍はまた、1940年にわずか9ヶ月で$100,000,000を費やして完成した巨大なコーパス・クリスティ海軍航空基地 Corpus Christi Naval Air Stationの建設におけるブラウン&ルートの役割にも感銘を受けた。ジョージ・ブラウンは1941年8月、プラッツァーの契約を新しいブラウン造船会社に移管した。ブラウン&ルート社は、拡張された造船所の建設にあたって連邦政府の資金を一切受け取らず、その“やる気”の姿勢でコストを抑え、駆潜艇(鋼製船体)PC-565の建造を7ヶ月足らずで完了させた。造船所の建設現場はヒューストン・シップ・チャネル Houston Ship Channel沖の狭いグリーンズ・バユー Greens Bayouの一部に位置していたため、造船所はサイドウェイ・スリップで船を進水させざるを得なかった。ブラウン&ルート社は、グリーンズバイユーに自社造船所を建設したのに加え、リバティ貨物船を建造したトッド造船所が率いるヒューストン造船公社造船所建設の主契約者でもあった。駆潜艇の竣工と引き渡しはすぐに、駆潜艇だけでなく、より大型の護衛駆逐艦や揚陸艇の海軍からの追加発注につながった

↑Photograph of the Brown Shipbuilding shipyard in 1944 (Woodson Research Center, Fondren Library, Rice University). Image courtesy of U.S. Naval Institute.

※ブラウン造船は、鋼材をクレーンで船体に吊り上げる前にレールによって運搬し、船体の各部分に加工する組立ライン技法を採用した。完成した船は、狭いグリーンズ湾 Greens Bayouに横付けされる。造船所では1942年後半から、ピーク時には25,000人以上の労働者が働いていた。ブラウンは、これらの労働者がヒューストンから造船所まで直接移動できるように、特別なトレーラー・バスを使用した。護衛駆逐艦の工期は当初約30週間だったが、20週間に短縮され、1隻あたり平均$3,300,000で週1隻の納入となった。同社の生産性は非常に高く、1942年12月には陸軍海軍の“E”生産賞 army navy "E" productionを受賞した

↑Brown Shipyard buses transporting workers from Houston (Library of Congress). Image courtesy of U.S. Naval Institute.

↑Photograph of the USS Savage under construction (Woodson Research Center, Fondren Library, Rice University). Image courtesy of U.S. Naval Institute.

※ブラウンは、12隻のPC-461級駆潜艇(鋼製船体)と、38隻のエドソル級と23隻のジョン C. バトラー級を含む61隻の護衛駆逐艦を建造した。同造船所はまた、32隻の歩兵揚陸艇と254隻の中型揚陸艦を建造した。これらの艦艇は、大西洋海戦、Dデイ侵攻作戦、サマール沖海戦、マーシャル諸島、マリアナ諸島、テニアン、硫黄島、沖縄、フィリピンでの作戦など、第二次大戦中のほぼ全ての主要な海戦に参加した。最も有名なブラウン建造の護衛駆逐艦は、サミュエル B. ロバーツ Samuel B. Roberts(DE-413)で、1944年10月のサマール沖海戦で日本海軍機動部隊を撃退する重要な役割を果たした。戦艦金剛を含む日本の戦艦から何度も攻撃を受け、90人の乗組員とともに沈没した。ロバーツは、戦いの星1つと大統領部隊賞を受賞した

↑金剛型戦艦金剛(1944年時)

※ブラウン造船で働く労働者のほとんどは白人男性であったが、アフリカ系アメリカ人やヒスパニック系の従業員も働いていた。歴史家のアーネスト・オバデレ=スタークス Ernest Obadele-Starksは、戦時中のある時点で“ブラウン造船は約14,395人の労働者を雇用し、そのうち1,150人は非白人だった”と述べている。東海岸と西海岸の両造船所は、特に南部にはジム・クロウ法 Jim Crow lawsが存在したため、マイノリティにとってより良い経済的機会を提供していた。ブラウンのマイノリティは、あらゆる 階級の造船所労働者に対する強い圧力にもかかわ らず、高賃金の職への就業を拒否されることが多かった。1941年11月に設立された訓練施設、ヒューストン黒人訓練学校 Houston Negro Training Schoolの責任者S. B. バーズ S. B. Byresは、ブラウン造船所の人事部長に、学校の卒業生を雇用するための支援を求めた。ブラウン造船所長は、“一流の溶接工との軋轢があり、統合の機は熟していない”と答えた。そこでバーズは、ヒューストン米国雇用サーヴィス Houston United States Employment Serviceを通じてブラウンでの卒業生の雇用を獲得しようとしたが、うまくいかなかった。結局、彼は“ニュー・オーリンズのヒギンズや、マサチューセッツやカリフォルニアの造船所で”彼らの就職先を見つけた。ブラウン造船では、ヒスパニック系労働者の雇用も同様に少数であった。溶接工や配管工のような熟練した職種に就いた者もいたが、ほとんどは一般労働者として雇用された。ラテン・アメリカ市民連盟(League of Latin American Citizens: LULAC)のジョン・ヘレラは、人種差別と闘った。彼は履歴書に“1939年から1943年まで、ラテンアメリカ人と黒人からの抗議に基づき、ヒューストン造船公社とブラウン造船公社は雇用に関して差別を行っていた”と述べている。LULACに加え、公正雇用慣行委員会(Fair Employment Practice Committee: FEPC)も差別と闘った。ブラウン造船は、1942年に南部の造船所の中で初めて女性を雇用し、“金型ロフト、レイアウト作業、溶接工、バーナー、チッパー、造船工、ベンチ電気工、資材運搬員、板金工、工具室事務員、現場検査員、塗装工”として訓練した。ブラウン造船所は海軍艦艇を建造していたため、海軍の検査事務所があり、それまで男性が就いていたこれらの公務員職の多くに女性が就いていた。1942年、ブラウン造船はテキサス州の14の町に訓練ユニットを設立した。私立や政府出資の学校も州内に設立された。ブラウンの新入社員は、週に3日、夜2時間の授業に4週間出席し、艤装などの基礎課程を修了した。修了すると卒業証書が授与され、賃金が上がった。賃金は“ヘルパーの時給67セントから一級船舶作業員の$1.20まで幅があった。女性は男性と同じ賃金を引き出すか、同じ仕事に就けばそうなる。フォアマンとリーダーマンは時給1.20ドルが最高”造船所の労働者たちは船のスポンサーとなり、戦時国債を購入した。ブラウンの報告によると、“ヒューストンのブラウン造船所で働く100人の労働者のうち98人が、$1のうち16セントを国債に換えている”。労働者の士気を高めるために講演者が招かれた。その中には、船が沈没したのち、救命ボートの中で赤ん坊を出産した医師の証言や、1940年と1941年のドイツの電撃戦の最中でも仕事に留まったイギリス人労働者の話を披露したイギリス労働党員のスピーチも含まれていた。女性は通常、船の進水式で栄誉を与えられた。1942年の「オースティン・アメリカン」紙には、そのような場面の一つが報告されている:“もうひとつの駆潜艇、USS PC-611が月曜日、ここのブラウン造船会社の工場で進水した”進水式は、護衛駆逐艦ダグラス A. マンロー Douglas A. Munro(DE-422)の命名式のように、船が愛する人の名前にちなんで命名された場合、特に感動的であった。1944年3月9日、エディス F. マンロー Edith F. Munroは、第二次大戦中に名誉勲章を授与された唯一の沿岸警備隊員である息子の名を冠したマンローの命名式を行った。マンローは息子が戦死したのち、沿岸警備隊に入隊した
※ブラウンでは多数の組合が船員を代表していた。その中には、ボイラー技師国際同胞組合 Brotherhood of Boilermakers、アイアン・シップ・ビルダーズ・アンド・ヘルパーズ Iron Ship Builders and Helpers、ヒューストン金属労組協議会 Houston Metal Trades Council、溶接工・バーナー工・切断工連合同胞組合 United Brotherhood of Welders, Burners, and Cuttersが含まれていた。黒人船員は、訓練を拒否する組合によってしばしば差別された。国際ボイラー技師同胞団ヒューストン支部は、“黒人を熟練職種で雇用することを拒否し、労働環境を隔離し、清掃員や一般労働者のような最も汚く賃金の低い仕事に就かせた”。アフリカ系アメリカ人の労働者は、白人と同等の賃金を要求すれば、手数料を請求されることさえあった。FEPCは、造船所で白人労働者に取って代わられた黒人労働者を支援するために介入し、また同じ仕事に対して白人よりも賃金が低いという苦情を転送した。連邦機関は、造船所が雇用記録を提出しなかったため、米海軍に依頼してブラウンの給与記録を調査しなければならなかった。FEPCは、ブラウン社がマイノリティ労働者に対する適切な賃金、雇用、解雇の慣行を遵守しているかどうかを確認したかったのである。全国労働関係委員会もFEPCを支援し、“ブラウン社の労働組合と経営陣が、黒人を平等に雇用することや組合選挙での投票を拒否していること”を訴えることに成功した。ヒスパニック系労働者も不当な扱いを指摘した。LULACのジョン・ヘレラ John Herreraは、ヒスパニック系労働者が溶接工として訓練することを許されなかったという報告に関して、ブラウン社の人事部長E. L.ハウスラー E. L. Hauslerに回答を求めた。ヘレラはハウズラーに、ヒスパニック系労働者は真珠湾、ルソン、バターンで米国防衛のために戦ったのに、本国で働く機会が平等に与えられていないことを思い出させた。ハウズラーは、ブラウン造船が特定の溶接工の訓練選抜に関係していたことを否定し、同校で訓練を受けたヒスパニック系労働者の何人かは造船所で雇用されたと述べたエレラはそののち、1944年7月23日にブラウン造船から11人のヒスパニック系女性が解雇されたことに関する懸念を、ルーズヴェルトのFEPCの南西部委員長であったカルロス E. カスタニェーダ Carlos E. Castañedaに訴えた。彼女たちの不満の中心は、ヒスパニック系でない女性と交代させられたことであった。造船所側は、解雇は勤怠記録の結果であり、人種差別ではないと主張した。FEPCは1944 年10月、女性たちの復職を認める判決を下した
※ブラウン造船所における欠勤は、1943年から大きな問題となっていた。ブラウンの副社長兼ジェネラル・マネージャーであるL. T. ボリン L. T. Bolinは、この問題の原因を気温のせいにし、“当社では平均して毎日約7.5%の従業員が欠勤しています。これは全国平均をわずかに下回っています。この率は最も寒い時期には約10%上昇し、暖かい天候が戻ると再び低下しました」と述べた”。上司は欠勤者について、欠勤の言い訳とともに毎日報告することが義務付けられていた。週のうち2日間、2週間連続で欠勤した場合は、出勤停止や解雇などの処分が下された。ボリンはさらに踏み込んで、“欠勤を理由に徴兵委員会に報告された労働者はいなかったが、仕事を辞める労働者は報告されていた”と断言した。造船所の労働者には戦前より高い賃金が支払われていたにもかかわらず、離職率は大きな懸念材料だった。報告によると、“1943年の最後の6ヵ月間、造船所労働者の8.2%から12.0%が毎月離職していた”。戦時中の高いインフレ率と住宅問題が、労働者がより高賃金の仕事を求めた理由のひとつだった上司は欠勤者について、欠勤の言い訳とともに毎日報告することが義務付けられていた。週のうち2日間、2週間連続で欠勤した場合は、出勤停止や解雇などの処分が下された。ボリンはさらに踏み込んで、“欠勤を理由に徴兵委員会に報告された労働者はいなかったが、仕事を辞める労働者は報告されていた”と断言した。造船所の労働者には戦前より高い賃金が支払われていたにもかかわらず、離職率は大きな懸念材料だった。報告によると、“1943年の最後の6ヵ月間、造船所労働者の8.2%から12.0%が毎月離職していた”。戦時中の高いインフレ率と住宅問題が、労働者がより高賃金の仕事を求めた理由のひとつだった。労働争議も船舶建造の妨げとなった。そのような労働争議の1つが、1945年6月のヒューストン金属労使協議会 Houston Metal Trades Councilを中心とするものであった。マグノリア・エアコ・ガス・プロダクツ Magnolia Airco Gas Productsの組合運転手が、溶接ガスや燃焼ガスを配達するためにピケ隊列を横切ることを拒否したのである。ストライキ中、約30人のベテラン戦闘水兵がピケ隊と衝突し、国がまだ戦争中であるにもかかわらず、“船の生産を止めるようなことは恥であり恥辱だ”と述べた。水兵たちはノルマンディ侵攻作戦に参加した2隻の戦車揚陸艦(LST)の乗組員で、彼らの介入は、船が修理のためにブラウンに停泊している間に起こった。第8地域戦時労働委員会 Eighth Regional War Labor Boardは、ブラウン造船とマグノリア・エアコ・ガス・プロダクツにおける全てのピケッティングの中止と、全ての労働者の即時職場復帰を命じた。ブラウン兄弟は声明を発表し、“事態の核心は、ブラウン造船会社にクローズド・ショップを強要し、戦争工場の全員を組合に加入させる契約を金属労組評議会が主張していることである”と述べた
※何千人もの労働者が影響を受ける大規模なレイオフが目前に迫っていた。海軍から新たな仕事を受注できる見込みは薄れつつあった。1945年8月、造船所では海軍艦船建造の新規受注がゼロであることが報告された。1946年9月、ジョン・サリヴァン海軍長官 Navy Secretary John Sullivanは、海軍は年末までに4万人の民間労働者を解雇する計画であり、最も深刻な削減は造船所で行われることを確認した。ブラウン造船は、終戦時に海軍艦艇の修理という小規模な仕事を抱えており、人員削減は比較的少ない計画であった。同造船所は、“契約中の仕事が完了するにつれて、日毎に通常の辞め方が行われ、労働力が減少することが予想される”と述べている。 ブラウン&ルートは、製油所、化学プラント、海上石油プラットフォームなどを建設する大手エンジニアリング建設会社として戦後も成長を続け、これら全てがヒューストンの戦後の産業成長に拍車をかけた。1949年、ブラウン造船所は船舶修理施設としてトッド造船所にリースされた。1984年、ブラウン&ルート社が造船所を引き継ぎ、海洋加工ヤードとして使用。おそらくブラウン造船会社にとって最大の遺産は、造船所が直面した困難にもかかわらず、海軍軍艦を建造するという“やり遂げる”姿勢であった


Update 25/07/28